安居古城の県衙の遺跡は重慶で唯一現存する明代の古代県衙であり、2003年に県指定文物と認定されました。現在、県衙の広間、内部の庭、両側の建屋及び官邸は修繕完了で、建築は約2000平方メートルを占めています。
查看详情王翰林院は明代に建てられ、元々は明・清の時代の名門王家の邸宅で、天官邸と呼ばれていました。王翰林院は化龍山の下に位置し、俗称「猛虎跳岸」で、「化龙山在后,身前双玉环,千人齐拱手,万盏明灯来(山を背に江に臨むこの地域は、昼夜関係なく賑わっている)」と詠まれました。王家には、明代に王倹、王億、王賓の三人の進士と王寅、王宸、王寄、王吉士の四人の举人、また清の康煕・乾隆時代に王恕、王汝嘉、王汝舟と王汝璧
查看详情安居古城の要衝である西側に位置する安居古城国学館は、道教の影響を受けて、冠山に寄りそって建てられたもので、伝統文化と地域文化の特徴を融合させた人文と環境を表す国学館です。国学館は三皇廟を改築したもので、現在も人類文明の始祖である伏羲、炎帝、黄帝を祀っています。館内の展示品は、山と水に囲まれて霊気が集まり、龍と鳳凰が住み着き、星と月が共に輝く安居の壮大な自然及び人間は天と互いに呼応し、一体であると
查看详情範家麺館(ラーメン屋)は解放前の安居にある老舗の麺館で、烈士の邱少雲が1947年に働いていた場所です。邱少雲は賢く、勤勉で真面目な人で、師と客に高く評価されていました。二年後、邱少雲は中国人民解放軍に入隊し、朝鮮戦争で命を落としました。邱少雲の「規律を厳守し、大局を顧み、私心なく奉仕する」精神は、後世の中国人に前進する勇気を与えています。
查看详情大夫第は安居鎮の北西部に位置し、冠子山を背に瓊江に面し、昔は水陸交通の要路であり、美しい景色に恵まれています。大夫第は元々朱大夫の邸宅で、清代初期に建てられ、既に300年近くの歴史があります。明代、大夫第では飲食店、塩庫や崇龛旅店が経営されていたが、明の末期に戦争で破壊されました。清代には、唐家院など巴渝の特色を備えた住居が建てられました。
查看详情波崙寺は城内で最も多いの人が訪ねる寺であり、安史の乱の時、安居の財産家の周順福が遂州石佛寺(今の遂寧広徳寺)に行き、魯班の子孫の魯謙に要請を出し、建ててもらった寺です。最初は名を付けられなかったが、寺に三日間泊まったある高僧が「連山為崙,連水為波(山脈を崙と表し、流れる水を波と表す)」と感慨したから、崙と波の二文字を寺の名として使い始めました。現在、崙波寺には唐代の詩人である韓愈が書いた「鸢飛魚
查看详情元天宮は關子山の山麓に位置し、旧名は五顕祠で、五代(西暦907-960)に道教の有名な譚紫霞が安居に布教に来た時に修繕されました。明代初期に玄天宮に改められ、康熙の時代には皇帝玄烨の名前を避けるため元天宮と改名されたそうです。元天宮は真武大帝を祀っています。玄武大帝は玄天上帝、玄武大帝、無量祖師とも呼ばれて、正式名称は真武蕩魔大帝です。漢族の伝説に現われた北方の神であり、道教の神々の中で有名な玉
查看详情城隍廟は城の西側西冠子山の山麓に位置し、東西方向に並べています。城隍廟は「周宮」の八人の神の一人である水庸の祭祀を起源とする廟であります。元々「城」は土を積み上げて作った高い城壁のことで、「隍」は城壁を巡らす水のない堀のことを指します。古代人は生活に密着したものに神が宿ると考え、「城」と「隍」を守り神として神格化したのです。城隍は、都城隍、府城隍、州城隍、県城隍の四つの階級に分けられます。安居は
查看详情迎龍門は、城の北西部、瓊と涪の堺である冠子山の中腹に位置します。宋の時代に初めて建てられ、明の時代に再建されました。記録によると、安居から二里あまり離れる上流に龍門山があり、龍門山の二里奥の所にの龍潭(龍が住む淵)があり、龍門山の前に接龍橋(龍が渡る橋)があり、龍門山の山頂に、北宋時代の蘇汝砺が建てた龍門書院があります。龍は海を出る時、城の西に位置する瓊江と涪江の合流点を通らなければならないので
查看详情劉伯承は中国人民解放軍の創設者と指導者の一人です。1926年12月沪順での挙兵が失敗した後、四川省総督の劉湘は五万元の賞金をかけて、劉伯承元帥を指名手配しました。彼は参謀の周国淦一行を連れて、栄昌、富順、隆昌、永川、大足を経て、最後は1927年6月にここ安居に辿り着きました。安居は四川東部の有名な水運の拠点で、その上、劉伯承一行の参謀周国淦は安居の出身だったということもあり、劉伯承たちは安居に忍
查看详情劉雪庵安音楽芸術館では、有名な音楽家である劉雪庵の創作を展示しています。「好花不常开,好景不常在……(綺麗な花は何時までも咲いたままには居られない、幸せは長続きはしない)」、テレサ・テンがカバーし、中国全土で流行していたこの曲―「何日君再来」は、まさに銅粱人の劉雪庵が作曲した曲です。劉雪庵は1905年11月、銅粱で代々学者の家庭に生まれました。祖国と民族への愛が、彼の人生のメインテーマとなりまし
查看详情迎鳳門の当初の名称は「東門」であり、創建年代は不明です。明代の成化年間に石造で建てられたもので、古代の門の中でも保存状態の良いものの一つです。門を出て平橋に向かい、烏木溪沿岸の柳の密な枝をくぐり、曲がりくねる静かな小道を経て、岱廟に入ると古代の飞鸯山に着きます。聳え立つ飞鸯山は、地面から浮いているように見え、まるで舞い上がっている鳳凰のようです。山頂の石は鳳鼎の如き、古城の遥か遠い西にある冠子山
查看详情明代に建てられた安居火神廟は、元々は明代の安居県察院の所在地でありました。明代末期に何度も戦争や放火で火災に見舞われた安居の火除けを願うために、清代乾隆年間の人々は県察院を火神廟に改築しました。その正殿は火神廟と呼ばれており、天井には、蟠龍藻井という装飾があり、殿内は南方火徳蛍惑星君を祀っています。殿内の二本の柱には、"火居午位原无象,德合南天信有灵(火は予測が困難だが、真摯に願えば、神に守って
查看详情薬王廟は化龍山の右側に位置し、創建年代は不明です。元々は烏木橋の横にあり、明朝末期は戦争で破壊され、その後、修理されました。康熙の十七年(西暦1679年8月)は洪水に流され、倒れました。嘉慶の二十四年(西暦1820年)にまた修繕されました。正殿はよく保存されており、薬王である孫思邈を祀っています。両側にある建家は外壁が残っているものの、積み上げた石と煉瓦は風化が激しいのです。昔、安居の儒学者であ
查看详情文廟は化龍山の頂上にあります。文廟は明代中期に建立され、弘治の十年に修繕されました。明代の戦争で破壊され、現在は大成殿しか残っていません。清朝の乾隆二十六年、知県の蔡玉華を始めとする地方の有力者たちは崇聖宮及び東西庑戟门を建てました。嘉慶の二十三年、監生の周启標が祭り用の畑を寄贈し、小作料として取り立てた四十石の穀物を春秋の丁祭(孔子を祭る行事)に使いました。道光の五年、民衆は壁を修復して、棂星
查看详情清代の翰林呉鴻恩の展覧館であります。呉鴻恩は字が澤民、号が春海で、曽祖父曽毓璜の影響を受けて子供の頃から読書に夢中し、勉強に励んていました。彼が道光の二十九年(西暦1849年)に朝廷に選ばれ、工部省营缮司行走に就けました。また同治元年は進士に及第し、同治の四年(西暦1865年)は翰林院の編纂担当及び国史館の編修担当として採用され、更に同治の十年(西暦1871年)は山東道、雲南監察御史を拝命しまし
查看详情斉安公所、別名帝主宮や黄州公館、湖北省斉安郡からの移住者が修理費を寄付して修繕しました。正殿では、「三元大帝」(三官尊神とも呼ばれる)が祀られています。三官とは、「天官・地官・水官」のことで、上古時代に生きる先祖たちが天、地や水の自然現象を崇拝することに由来しました。中国古代人は宇宙に存在するすべてのものは、天・地・水の三つの基本要素、総称して「三元」なしには生存・成長できないと考えられています
查看详情安居湖広会館は明代中期に建てられ、明代末期の戦争で破壊されました。清朝乾隆年間に修繕されたが、咸豊年間に焼失されました。光緒年間に湖広の有力者が寄付して再建を果たし、2003年、銅梁県安居製糸工場の寄付で修繕しました。会館は安居古城の南側に位置しています。、左側は媽祖廟(天后宮)と壁を共用し、右は斉安公所(帝主宮)に繫がっています。会館は2200平方メートル面積を占めており、1387平方メートル
查看详情天后宮は、媽祖廟、福建会館とも呼ばれます。明代に初めて建てられ、安居古城の南街に位置し、左斜め後ろに武廟が隣接しています。右は湖広会館と壁一面を隔て、玄関の前に大通りが通っています。後ろに山があり、その山の向こうに川主廟があります。天后宮は、福建省の有力者の寄付で修繕されました。媽祖の実名は林默です。西暦960年3月23日に福建省甫田県で生まれた彼女は小さい頃から水泳の技能が高く、潮の音を聞いた
查看详情安居古城は隋の開皇八年(西暦588年)に建てられ、城内に赤水溪があることから赤水県と名づけられました。南宋時代、戦争を避けるために龍多山に役所を移し、元代になると廃止され、合州と銅粱に編入されました。明の成化十六年に再び県を設置し、安居と改称しました。安居とは、平穏無事に暮らし、楽しく働くことを意味しています。安居古城には九つの古代の城門があり、最初は煉瓦と木材で修繕され、明代中期に石材で再建さ
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